浜田藩追慕の碑2009年05月11日 08時41分40秒

”石見の国は山多く 岩骨が海にちらばり”で始まる司馬遼太郎の碑文である。

浜田藩は江戸開府以来、長州に対する要として有ったのに幕末に自ら城を焼いて退いたと聞いていた。
石見銀山でも代官は逃げだし、残った因州鳥取藩兵が長州軍と戦っている。
直接、長州と対峙した山陰地方の幕軍は弱虫的なイメージが強い?

しかし、この戦が維新と呼ばれる一連の内戦の2年も前の事だと言う?

日本中が今だ徳川幕府の治世下で長い平和な生活を続けていた時?
変わりゆく時勢を知ると同時に浜田藩は長州軍の進行を受ける!

この直前に藩主は一人の武士を呼び、長州軍を領内に入れるな と指示をする。
 
慶応2年6月16日の朝、村田蔵六率いる長州軍がこの地にさしかる。
1500名の長州軍に対して郎党6人と急募の農民?

状況を理解したこの人、全員を退かせてただ一人、鎧に大槍で関門に仁王立ちで長州軍を迎える!

戦で有れば一瞬で勝敗は決するがコレにはさすがの村田さんも困ったようで?
 説得を試みるが「主命である」として受け付けない!
とはいえ1500対1ではカッコ悪すぎ!

長州側は 今、関門を開いてもあなたの責任にはならぬとまで説得するが!
 この人「いざ 参る」と大槍を扱く
         さすがに大村さん一定距離退かせ、一斉射撃を命ずる!

資料には弁慶でもあるまいし慶応2年の日本で「立ち往生」と記されている物もある。

この銃声が長州で四境戦争と呼ばれる、第二次長州戦争の口火となった。
 そして、この為に村田さんの予定が一日遅れる?

福山・津山・紀州藩兵も参戦していたのに翌17日には敗走
浜田藩は18日に自焼退城となる。

この人の事を調べてみたいと思い浜田城趾に登った。
城跡の一角”浜田藩追慕の碑”の横に名鑑が立っていた。
石州口の戦いの項に”岸静江國治 石州口死守”と記されていた。
その他に11名の討死と1名の自刃者の名前が有った。

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