聖徳寺の弾痕2009年05月12日 08時55分15秒

慶応2年6月17日、一端は扇原関門より横田へ引き上げた長州軍は侵攻を開始する。
浜田藩と各藩で編成された幕軍は数カ所で反抗を試みるが・・・・
 これが・・まあ やる気の問題だなあ?
記録では幕府軍の総数は3万人とも?長州軍は1000人とも?

幕府軍はこの付近に防衛線を引き長州軍を迎え撃ちます。
 と 言っても前日の岸さんのような侍?がいるわけでもなく?
主軸の津山藩・福山藩と紀州藩も戦意はそんなに高くなかったと言われています。
直接領内で戦う浜田藩兵のみ頑張ったって勝敗は決していたのでしょう。

このお寺に長州軍の銃痕が残っています。

戦わずして自ら城を焼いて逃げたって話はどこから来ているのだろうって?
不思議になってきますねえ!

確かに自焼退城ですから弱すぎってイメージですが?
戦意が有るのは浜田藩兵だけで近代装備の長州軍相手?
しかも指揮を取ったのは後に半日で上野寛永寺の彰義隊を敗走させた村田(大村益次郎)さんですから!
初戦の石州口の戦いから追い込まず逃げやすいように仕掛けていたんですねえ・・・


ところで自らの不明で長州軍迫る石州口に岸さんを派遣し戦端が開いて後に徹底抗戦を志すも追従者を得ず、敗戦落城の不名誉を避けるために自焼退城を選択した藩主?

この人って慶喜の弟なんですねえ?

なるほどなあ・・ 
それで勝ち目がないって逃げるわけにはいかなかったんだなあ。

ところで長州軍はこのまま攻め上がり石見銀山を押さえるわけです。
 で この人達が豊栄神社を造って毛利元就の像を祭るのだが?
      この像って何処に有るのかなあ?

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