津堂城山古墳2013年09月03日 07時33分09秒

たこ焼き屋で思わず寛いでしまった?
道を戻り交差点で右方向を見れば空き地が見える!
なあんだ、さっき信号の変わり目で急がなければ気がついたなあ。
大阪の住宅街の中にイキナリの広場がある。
草原の木陰で今風の若者達が持参の椅子で寛いでいる。
全景を撮影し草原を抜けて古墳に登る。
城跡と認識されて天皇陵の指定から逃れたと言う記述が多いが?
・・・・何処から見たって古墳だよ!
三好氏の砦だったという言うが、そう言う事が有ったとしても良く残ったなあと思う。
小山善光寺に伝わる善光寺縁起にしろこの場所には何かがあったんだろうなあ。
古墳全体を歩き回り破られた金網に感心し、
神社側に降りる。
資料館でトイレを借りて展示物を眺める。
露天に置かれた玄室の蓋、ナルホドと感心し残り半周、府道側を歩く。
子供達にとってこの場所はのび太君達の裏山なんだろう!
こう言う環境は残しておきたいだろうなあ。
公園としても史跡としても殆ど何もなされていない・・ココが良い。
世界遺産が絡むとコウイウ形での保存は難しいと思う。
古い道と思しき路地を歩きながら藤井寺駅を目指す。


小山善光寺へ2013年08月30日 09時14分36秒

朝食に駅弁を買おうと売店へ行くも品川貝づくしが見当たらない?
残念、サンドイッチで済ます。
大阪へ御堂筋線で天王寺へ近鉄に乗り換え藤井寺。
時間は昼を回り腹も空いたが駅前は何も無い。
古いアーケードに出て踏切まで戻る。
コウイウ景色は最近はなかなか珍しい。
彷徨くが美味そうなのはお好み焼きを持ち帰るってスタイルの店。
うどんの幟を見つけて路地に入る。安い!が味も想像通り、美味い?
アーケードを歩き進むと古い道とワカル、住宅街に入っていく。
微妙な曲がりでお堂も有りおばさんが手を合わせている。
少し広いかなという感じの場所が小山善光寺。今回の目的地だ。
町中の普通の寺で見るべき物、ナルホドというモノも無い。
本堂を工事中のようだが人気は無い!一通り見て先へ進む。
ここは本田善光が拾った仏像を背負い泊めてもらって、その仏像を所望され仕方が無いので一緒に拝んだら二つになってその一方を納めた所?
話がオカシイでしょ!

だいたい泊めてやったから持ってる仏像をくれってヤツもアヤシイ!
その上に拝んだら3日目に倍になるって・・・・
ココには何も無いので元々有ったと言われる場所へ移動する。

道が少しづつ下りになりそれでこの古墳が城に選ばれたんだなあと・・
古墳の外周を歩いてみようと行くと平らになりそろそろのハズ。

100円と書かれたたこ焼きの店が有る・・チョットそそられる?
前方に高速道路が見える・・おや?道を間違えたな!
事前に調べた記憶をたよりに曲がるも解らず。
ココまで来てやっとスマホで地図を確認するがコレがよく解らない。

とりあえず大きな公園を目指し進むと、再び100円のたこ焼き屋が有る?
あれれ、何の事はない。さっきの店だ、コレも縁と店に入る。
小さな店だがお客が絶えない、初見の僕にも話しかけてくる。
自分達の話に振り向いて僕にも同意を強要する。
大阪のおばちゃんが入れ替わり現れて面白い!

問わず語りに聞かれたので津堂城山古墳の行くのに道を間違えたと話す。

東京から来て小山善光寺とソノ古墳だけ見に来たのかとエライ驚かれる?確かに普通の寺と神社裏の空き地のような場所だものとは思う!

たこ焼きは時間が掛かると言われカキ氷を先に食べる。



迷子になる2013年08月29日 06時03分51秒

予定通り新幹線に乗り御堂筋線で天王寺へ、藤井寺へ至る。 駅前から古いアーケードに出て昼飯を悩む。 路地にうどんの看板を見つけてハイカラ饂飩を食う!

その道を歩き小山善光寺に詣でる。 想像の通り何も無い。 このあとで道に迷う!

詳しくは帰ってから、スマートフォンではこれだけかくのもたいへんだ。

迷子になったおかげで百円のたこ焼きに出逢う。 では、今日はここまで?

大宮八幡神社の続き2013年01月08日 07時40分57秒

僕が祖父から聞いた話しでは我が家は元は武士だったと聞いていた?
けれど岩崎取左右衛門さんは武士では無いようだ!
この事はずっと前から不思議だった。

岩崎家は源氏の出と聞いたがその辺が良く判らない!
どうやら神社境内のこの社に有る狛犬。
それとこの社の源頼義さんとその子の八幡太郎義家さんが祭られている。
子供心にウチの神社という風に聞いていた?それが白旗神社なのか。
 いずれにしろ、その辺りが理屈のようだ。
ただし祖父が武家の出というのは理由が有る。
上野寛永寺に馳せ参じた取左右衛門さんは子供を作らなかった?
実は祖父は彼の奥さんがその後に向かい入れた遠縁の養子が父親らしい。

この人が官軍として戊辰戦争に従軍した鳥取藩の侍だったと言う事だ!

それで寛永寺総攻撃の前に降伏勧告に行ったと言う伝説が有る。
そう言う事は我が家以外で聞いた事が無いので信用は出来ぬが。
この家ではそう言う話しになっている。
実際には取左右衛門さんは捕まり品川監獄に入牢するも行方不明?
死んだかどうかもワカラナイ・・・・

人の話ではそう言う事では無く脱走して榎本軍に同行した?
などと言う人もいる。

品川監獄行方不明者の渡道は事実のようだ。
ただし取左右衛門さんがどうと言うのはワカラナイ!

祖父の父、彼もまた戦も無いのに大阪鎮台戦死と戸籍に有る?
そんな近世の事も判らぬのだから源氏の出などというのは疑わしい!




只見、塩沢へ行く2012年05月16日 08時06分48秒

長岡から会津に抜ける街道に河井継之助終焉の地がある。
各地の維新戦には無駄な戦争は山ほど有る。
無益な戦を避けるつもりが結局は自ら引き金を引いてしまった。
そう言う役回りの筆頭かも知れない?

時勢も解っていたろうに? 何でかなあ・・・と 思う!

後に同郷の山本五十六って人が同じ事をする?

先人は長岡藩と越・奥羽各地に壊滅的な結果を招き?
後人はこの国に戦前・戦後という棲み分けを作る事になる!

聡明な人だからまさか土佐の青二才に足蹴にされるとはって。
  無益な戦を避けるために武装中立を説くって?
そういう事が通じれば鳥羽伏見は無かったと後の人なら解ったハズだが。

官軍の将ならそれくらいの人物が出てくると思ったんだろうなあ?

何所の維新戦でもだがソウイウ所へはあえてジャナイ人が配されている?

幕軍側に傑物がいれば、対して上手い具合に配置する
英雄は愚物に充てて・・そこが維新の不思議な所だなあ?

ココで河井さんがまともに話しをすれば会津戦争は避けられなくても?
函館戦は回避出来んじゃないかって・・・・・

まあ、済んだ昔の事だから?
大きな水害によって今この辺りは大変な状況になっている。

4時5分に着いたのだが既に「本日終了」の看板が出ていた。
窓口でお願いすると直ぐに開けてくれた!
展示内容はそこそこ、相変わらずお金を使っちゃったなあ資料館だ。
コレだけのお金を使うならそのままの家を保存するって方法は?
それでは儲からぬ人がいたのだろう?

お礼を言って辞し、資料館前で良い景色に驚く!ココで撮せば良かった。
だから、撮影時に寄ろうって言ったのにナア・・・・

気動車でも良いココを列車が再び走るようになったら再訪しようと思う。

本田善光2012年02月13日 08時01分50秒

二昔ほど前の話?
通信設備工事に従事していた頃に長野県の飯田に住んだ事がある。
元善光寺なる地名にお寺が有り、仕事の途中で寄ってみた?
立派だがそんなに大きな寺とは思えない風情だった。

ここが長野の善光寺さんが元有った場所?そういう説明書きがあった。

先日、琵琶湖へ出かけた時に案内板に機関車避難壕と言うモノ見つけて行って見る事にした。
東海道本線と新幹線に挟まれた小高い山がその場所で。
国道から集落に入り土地の人に聞いてやっとたどり着いた。
エラク立派なお稲荷さんばかり目立っていて避難壕は良く判らず。
再度、通り掛かった方に聞いて・・稲荷を回った先に看板を見つけた。
その手前、頭上に舞台作りのお堂が見える。
随分と立派なモノがと思ったが同時に避難壕も視界に入り其方を見に行く。

一通り、と言ってもただの穴?
 堀かけの室という感じで期待した様なそういう施設では無かった。

さて、帰ろうとしたが舞台が気になり?説明板を読む。
信濃国の本田善光? 難波まで3尊を探しに? どっかで聞いた話だ?
読んだ時には気にもとめていなかったが? あれ?
 それって善光寺の縁起だ!  そうか飯田の元善光寺に書いて有った!

なんとなあ? 面白い物だなあ! 興味本位で寄ってみたが。
コリャア面白い。 3尊を背負いこの地に至り仮眠の夢枕に?
それじゃあ夢のお告げを聞いたら善光寺はココだったて事かなあ・・・

夢に出た御佛はココに留まりたいって言ったらしい?

なのに本田君はそういう夢を見たって土地の人に言って信濃に行っちゃったらしいんだなあ?

この場所ってどういう所なんだろう?
  善光堂は推古の御世に岩脇稲荷神社は伏見天皇の時代とある?

こりゃあ善光寺の3尊が沈んでいた難波津にも行って見るかなあ・・・
しかし・・・そういう岩山に機関車を隠す穴を開けちゃったって事か?

上野寛永寺の黒門2012年01月25日 07時54分18秒

日光街道、南千住付近に円通寺という寺が有る。
江戸時代の処刑場、小塚原はこの辺りとなっている。

日光街道から境内を覗くと黒塗りの大きな柵のような物が有る。
これが上野戦争当時の寛永寺の門でこのお寺が賊徒として放置された彰義隊士の遺体を供養した縁で下げ渡された。
説明も少なく、寺自体もそういう事に無関心なのか?
シロアリに食い荒らされて酷いことになっている。
保存に関して管理者は誰でどうなっているのか解らないが手遅れの感も有る。

前から見れば弾痕で穴だらけ!攻撃の凄まじさが良く判る。

我が家の江戸末期の当主は何故か彰義隊に入って寛永寺に立てこもった?
戸籍上は捕縛されて品川監獄に投獄後、行方不明となっている。

余り興味は無いのでそれ以上は調べていない。

さて、このお寺の黒門は早い時期に行かないと・・廃棄になるかも?
それくらい酷い、しかもその後ろ側にメチャクチャに置かれている石碑。
ココに澤太郎左衛門だの新門辰五郎・三河屋幸三郎だのと名を掘られた碑がゴロゴロしている。
割れてしまっている物や傾いている物、ココの管理は?
コレだけ来歴がしっかりしているのにこの状態?

地方で有れば観光地として十分の価値があると思うが?
都なのか区なのか・・・お寺なのか? 早めに保存の方法を考えないと。

全国の色々な場所で維新の旧跡などを見に行ったが・・
 ココの弾痕の凄さは群を抜いていると思う。

長州の四境戦争以後に鳥羽伏見から函館戦までの戦跡で行った中では一番リアルに残っている!

所が保存とか史跡と言うには酷い扱い?  良く判らない物だ。

大湊まで行ってトンボ返りしたけれど2012年01月18日 08時34分01秒

決められた観光地を回る訳では無く鉄道趣味で線路の見える場所を歩き回って来た・・
そういう旅行をしていて石碑などを見つけココかあと言うことも多い。

通信の仕事をしていた頃に長岡にしばらくいたことが有る。
その時に河井継之助という人を知り。
そうして会津に汽車を見に行く途中が抗戦から撤退の道と知る
新政府軍の東征は長岡戦以降の会津戦争へと続く。

昨年は新潟攻撃の上陸地、新発田も訪問した。
年末に北海道に出かける、寝台特急は早朝に青森着となる。
そのまま函館も芸が無い! そこで斗南に行こうと計画する。

会津戦争の終戦後に領地は没収となり明治2年に家名存続が許され斗南を容保の嫡男に与えられ、翌年の明治3年1月5日に旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれて成立したと聞いている。
そうして、会津人達は新潟から船に乗りその場所に上陸した。

数年前に訪ねた時は汽車仲間との旅行の為にそこまでは行けず。
とりあえずその場所に立ってみたいという気持ちがずっと有った。

どうせ行くなら風雪の頃、季節も十分に良いだろう!

驚くほどに接続の悪い鉄道利用でこの季節に行くことに意味があるかは考えない方が良い、逆にこの旅程でしか行き着けないと思った。

もう少し・・ ゆっくり出来たら良かったのだが。

会津に向いて建っている石碑、説明の板、贅沢な旅行だなと思う!
立っていたのは数分間? 他にすることも無く海を見て帰る。

この地を初めて訪れた時には大湊線沿線の荒涼とした景色に驚いた。
平成の世なのに沿線は荒涼としている・・・・ そう言う記憶だった。
 今回もバスセンタから乗った小さなバスはそう言う景色の中を走る。

年末に急いで報告記を書いたので少し詳しくと思ったが?
ホボ同じ内容になった! この場所って書くこともこんな事しか無い。
行きと帰りは楽しんだが・・目的地では感動も無かったって事だ!

越後下関 渡辺邸2011年10月06日 08時45分22秒

新発田訪問、大蛇の後は渡辺さんの家に行く?
リフォーム中で足場だらけ、中はまるで工事現場のようだ。
見学の意思を伝えると喜んでくれる、工事の養生を見で帰る客が多いらしい。

昔の越後国は余程に裕福だったのだろう!あっちにもこっちのもこういう家が有る?

贅を尽くしたというよりは正しい経営をしてきたんだなあと覗える。
丁度、中の仕切りも取り払い家の大きさが良く判る。

修復の方法が少し乱暴じゃあ無いかなあと思うけれど。
残そうという意思を感じる作業風景だった?

よく喋る案内のおじさんが面白い!
 上杉家との関わりが興味を引くなあ?
秀吉に移封され会津から米沢に押し込まれた上杉。
それなのに越後の豪農達は上杉への援助を続ける。

その上杉も戊辰戦争の混乱に乗じて故地回復なんて時代がかった考えを?
結果は時を知り無駄と解ると戦意が消える訳だが・・

この家の博物館には鷹山候の書やお礼の品が残っている

可笑しかったのは戊辰戦争に上杉軍として郎党を率い参戦したらしい?
時代がかった兜と馬具の展示に戊辰戦争で使用と有った!

ばかげた話だ、それが源平の戦で使うような道具なんだ。

長岡や庄内に比べてあまりに吞気な?
それでも今にこの屋敷を伝えているの大した物だ。

大改修の作業足場の中、ヘルメットも着用させずに屋根まで上がらせるのは大丈夫かなあと思うが見る方は大変に面白く楽しめた。

維新後の鉄道誘致や敗戦/農地解放後の民政にチョット感心したなあ。

ココまでで時間は既に遅く、台風も近づき風雲急を告げる。
夜はウマイ肉を食う約束、カラオケにも行くらしい。

 僕はカラオケは得意では無い!
昔は仕事で随分と付き合ったがそれはオネーさんのいる店で・・
カラオケボックスと言うのは珍しい! 勉強になった?


しかし・・・不思議なモノだ?
案内人には赤坂峠の話も戊辰戦争と米沢藩の事も話してはいない?
なのに・・なんで渡辺さんの家に案内されるかなあ・・・・

謙信候以来の家臣団を主力とする米沢藩はこの家に泊まり、新型銃を受け取り新政府軍から越後を守るために赤坂峠に向かうわけだ・・・

赤坂峠2011年10月04日 07時50分07秒

前後したが新潟の報告を?
実は台風が向かっている大雨に大風と諦めていた訪問。

宿を出て長岡付近まで行くと太陽が出てきた?

それならば予定通りに赤坂峠へ向かおう!
 下調べした資料は練馬の電気屋の駐車場に有る?
行く場所が判らない。

友人に電話してパソコンを立ち上げて貰い。
 戊辰戦争 赤坂 古戦場 と入力してもらい住所を特定。

ナビに入力すると調べてあった地形が、良しとソコへ向かう。
 ウマイ具合に雨もやんで赤坂峠に着く!

長岡から栃尾を抜ける道は予想通りなだらかで進軍撤退の軍事が見える。

峠を越えてなだらかになる辺りに石碑を見つける。
解りやすい地形で背後の尾根道が戦場だろうと想像する。

松代藩中心の官軍と米沢・村松・長岡・会津の列藩同盟軍が会戦した。
村松藩のことは良く判らない?
しかし双方の調停にも積極的だった米沢藩が住民に請われて参戦と聞く?
彼らは越後を故知と認識し住民も同じように頼っている?
幕末に越後地方から一万石くらいが米沢藩に入っていたという?

越後という土地の豊かさは家屋の大きさでも良く判る。
豊臣政権により会津へ、戦わずに敗戦した関ヶ原後に米沢へ!
それでも幕末の動乱で故知奪還とか住民保護って越後に侵攻する上杉?

う~ん 越後時代の裕福だったか記憶がそうさせたのかなあ・・ 
他所者には良く判らない・・・

 雨中にその時だけ晴れた清々しい空気の中でしばしたたずむ。
   ソコへ電話が、葡萄葡萄と叫んでいる?葡萄園に行きたいらしい?
 しかし・・昼飯の予約が12時からでここからでは新発田着が11時過ぎ
 葡萄園などに寄っている時間は無いはず?

なだめてそのまま新発田へ向かい・・他に客のいない料理屋へ行く!

 郷土料理を頂く事になっている?
  しかし・・ 地元産の鮭は来月かららしい・・・・・