大湊まで行ってトンボ返りしたけれど2012年01月18日 08時34分01秒

決められた観光地を回る訳では無く鉄道趣味で線路の見える場所を歩き回って来た・・
そういう旅行をしていて石碑などを見つけココかあと言うことも多い。

通信の仕事をしていた頃に長岡にしばらくいたことが有る。
その時に河井継之助という人を知り。
そうして会津に汽車を見に行く途中が抗戦から撤退の道と知る
新政府軍の東征は長岡戦以降の会津戦争へと続く。

昨年は新潟攻撃の上陸地、新発田も訪問した。
年末に北海道に出かける、寝台特急は早朝に青森着となる。
そのまま函館も芸が無い! そこで斗南に行こうと計画する。

会津戦争の終戦後に領地は没収となり明治2年に家名存続が許され斗南を容保の嫡男に与えられ、翌年の明治3年1月5日に旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれて成立したと聞いている。
そうして、会津人達は新潟から船に乗りその場所に上陸した。

数年前に訪ねた時は汽車仲間との旅行の為にそこまでは行けず。
とりあえずその場所に立ってみたいという気持ちがずっと有った。

どうせ行くなら風雪の頃、季節も十分に良いだろう!

驚くほどに接続の悪い鉄道利用でこの季節に行くことに意味があるかは考えない方が良い、逆にこの旅程でしか行き着けないと思った。

もう少し・・ ゆっくり出来たら良かったのだが。

会津に向いて建っている石碑、説明の板、贅沢な旅行だなと思う!
立っていたのは数分間? 他にすることも無く海を見て帰る。

この地を初めて訪れた時には大湊線沿線の荒涼とした景色に驚いた。
平成の世なのに沿線は荒涼としている・・・・ そう言う記憶だった。
 今回もバスセンタから乗った小さなバスはそう言う景色の中を走る。

年末に急いで報告記を書いたので少し詳しくと思ったが?
ホボ同じ内容になった! この場所って書くこともこんな事しか無い。
行きと帰りは楽しんだが・・目的地では感動も無かったって事だ!

越後下関 渡辺邸2011年10月06日 08時45分22秒

新発田訪問、大蛇の後は渡辺さんの家に行く?
リフォーム中で足場だらけ、中はまるで工事現場のようだ。
見学の意思を伝えると喜んでくれる、工事の養生を見で帰る客が多いらしい。

昔の越後国は余程に裕福だったのだろう!あっちにもこっちのもこういう家が有る?

贅を尽くしたというよりは正しい経営をしてきたんだなあと覗える。
丁度、中の仕切りも取り払い家の大きさが良く判る。

修復の方法が少し乱暴じゃあ無いかなあと思うけれど。
残そうという意思を感じる作業風景だった?

よく喋る案内のおじさんが面白い!
 上杉家との関わりが興味を引くなあ?
秀吉に移封され会津から米沢に押し込まれた上杉。
それなのに越後の豪農達は上杉への援助を続ける。

その上杉も戊辰戦争の混乱に乗じて故地回復なんて時代がかった考えを?
結果は時を知り無駄と解ると戦意が消える訳だが・・

この家の博物館には鷹山候の書やお礼の品が残っている

可笑しかったのは戊辰戦争に上杉軍として郎党を率い参戦したらしい?
時代がかった兜と馬具の展示に戊辰戦争で使用と有った!

ばかげた話だ、それが源平の戦で使うような道具なんだ。

長岡や庄内に比べてあまりに吞気な?
それでも今にこの屋敷を伝えているの大した物だ。

大改修の作業足場の中、ヘルメットも着用させずに屋根まで上がらせるのは大丈夫かなあと思うが見る方は大変に面白く楽しめた。

維新後の鉄道誘致や敗戦/農地解放後の民政にチョット感心したなあ。

ココまでで時間は既に遅く、台風も近づき風雲急を告げる。
夜はウマイ肉を食う約束、カラオケにも行くらしい。

 僕はカラオケは得意では無い!
昔は仕事で随分と付き合ったがそれはオネーさんのいる店で・・
カラオケボックスと言うのは珍しい! 勉強になった?


しかし・・・不思議なモノだ?
案内人には赤坂峠の話も戊辰戦争と米沢藩の事も話してはいない?
なのに・・なんで渡辺さんの家に案内されるかなあ・・・・

謙信候以来の家臣団を主力とする米沢藩はこの家に泊まり、新型銃を受け取り新政府軍から越後を守るために赤坂峠に向かうわけだ・・・

赤坂峠2011年10月04日 07時50分07秒

前後したが新潟の報告を?
実は台風が向かっている大雨に大風と諦めていた訪問。

宿を出て長岡付近まで行くと太陽が出てきた?

それならば予定通りに赤坂峠へ向かおう!
 下調べした資料は練馬の電気屋の駐車場に有る?
行く場所が判らない。

友人に電話してパソコンを立ち上げて貰い。
 戊辰戦争 赤坂 古戦場 と入力してもらい住所を特定。

ナビに入力すると調べてあった地形が、良しとソコへ向かう。
 ウマイ具合に雨もやんで赤坂峠に着く!

長岡から栃尾を抜ける道は予想通りなだらかで進軍撤退の軍事が見える。

峠を越えてなだらかになる辺りに石碑を見つける。
解りやすい地形で背後の尾根道が戦場だろうと想像する。

松代藩中心の官軍と米沢・村松・長岡・会津の列藩同盟軍が会戦した。
村松藩のことは良く判らない?
しかし双方の調停にも積極的だった米沢藩が住民に請われて参戦と聞く?
彼らは越後を故知と認識し住民も同じように頼っている?
幕末に越後地方から一万石くらいが米沢藩に入っていたという?

越後という土地の豊かさは家屋の大きさでも良く判る。
豊臣政権により会津へ、戦わずに敗戦した関ヶ原後に米沢へ!
それでも幕末の動乱で故知奪還とか住民保護って越後に侵攻する上杉?

う~ん 越後時代の裕福だったか記憶がそうさせたのかなあ・・ 
他所者には良く判らない・・・

 雨中にその時だけ晴れた清々しい空気の中でしばしたたずむ。
   ソコへ電話が、葡萄葡萄と叫んでいる?葡萄園に行きたいらしい?
 しかし・・昼飯の予約が12時からでここからでは新発田着が11時過ぎ
 葡萄園などに寄っている時間は無いはず?

なだめてそのまま新発田へ向かい・・他に客のいない料理屋へ行く!

 郷土料理を頂く事になっている?
  しかし・・ 地元産の鮭は来月かららしい・・・・・

請われて説明する2011年08月13日 09時13分55秒

滋賀から原付で来た青年に請われて石見地方の観光案内を話した。

そう言う話題の中で”その場所”という話になる。
各地を旅するとこの地この場所というところがある。
調べもせずに出掛けてそう言う場所に行き会う、それが面白い。

益田の市街から多田温泉を経由し石見横手に至る道がある。
温泉を抜けて登りに掛かると直ぐ、右側に墓がある!
 そこが浜田藩士岸静江国治って人のお墓だ。
道路を挟んで扇原関門跡入り口という石柱がある。
道は広域農道の下を潜ると極端に悪くなる。
普通の車ではチョット危ない! C63なんかで行ってはイケナイ!
幅も狭く荒れていて車を大事にしている人は入るべきではない?
この道を登り切った場所が扇原関門と言われる場所。
一人で行かない方がよい? かなり気持ちが悪い!
コレより浜田藩  コレより津和野藩 2本の石柱がある。
 長州軍をたった一人で迎え死んで進軍を止めた岸さんの碑がある。
翌日にはココを越えて長州軍は浜田藩に攻め込むのだが・・・
 
 石見路における維新へ向けての最初の銃声が響いた場所だ!
この事を知ってから作州鶴田藩陣屋跡へ行き着くまで何年もかかった。
こういう風に旅するウチに自然にテーマが繋がっていくって面白い。

ここが? 岸さんが銃弾を受けて倒れた場所?
翌日の侵攻でこの地は江戸時代を終え?
 そのまま長州藩が占拠し維新に、そして明治を向かえる。
その場所は今は訪れる人も無く、津和野側は道の体をなしていない。
(興味のある方は過去のブログに詳細に書いてあります)

  歴史の瞬間をココと言い切れる場所って!
出掛けてみると彼方此方にそんな場所がある。

  旅する青年に請われて話し出したが・・
忘れていた事、思い出した事もあり山口行きの途中で寄ってみる。

    昼でも暗い関門跡は・・・  一人ではやはりどことなく気持ちが悪い!


北海道の思い出2011年06月17日 08時28分55秒

既に30年以上は昔の事だ・・・・
北海道富良野への出張を命じられた。

飛行機は嫌いなので汽車で行きたいと言って部長に叱られた?
 
千歳上空で急ブレーキでたまげ?旭川の飛行場の寂しさに驚いた!
 ますます飛行機が嫌いになる。

当時、別部隊が旭川にいて着日は彼らのアパートに泊まった。
ジンギスカンで歓待してくれて、翌日の汽車で富良野へ向かった。
(この後、3夜連続のジンギスカンになる)

先行のメンバーが下宿屋を手配していてくれた。
場所は忘れてしまったなあ、自動車教習所の側だったと記憶している。

登山用のリュックに寝袋で部屋は2階だったなあ。
電球が天井からぶら下がっていてカーテンも雨戸もない部屋。
夜になり、何もないので読みかけの本を読んでいた。
突然、ドアが開き?女の人が入って来た。
「何も無いねえ、私の部屋に来てテレビ一緒に見る」
その瞬間から富良野の出張は賑やかな事になる?

翌日には町を歩いているだけで見知らぬ人に挨拶される?
既に東京から通信の工事できていると町中の人が知っている感じ。
夜中に電気屋の兄ちゃんが来てディスコに行こう!
            車に乗せられ暗闇の国道を走る・・・
  随分遠くに有るのだなあと聞くと旭川に向かっている?
 同乗の全員に富良野にディスコが有る訳がないと笑われた!

カレーの美味しい喫茶店も昼飯お代わり自由の定食屋も友達状態に、凄かったのはデパート!
実は向かいに住んでいた例の女の人はそこの店員さんだった。
買い物に行くと売り場を回って挨拶する?
 そうしないと夜に私のトコに来なかったと文句を言いに来る?
が 彼女は女性の下着売り場で・・・・・

下宿屋には深川の電気屋の息子、若い警察官などいろんな人がいた。

既に誰とも連絡は取れない・・・・
   それでも、とりあえずあの町に行ってみようと思う。

当時の写真は探せないなあ何処かには有るのだろうが?
 基本鉄道写真は箱に入っているが出張時のは記憶も・・・
   ネガ、有るのかなあ。

新発田に出掛けた続き2011年02月24日 08時54分06秒

友人の仕事のついでと言う事情で突然の新発田行きとなった。
なぜ?この地に興味があったかと言うと実は四境戦争の石州口の初戦で浜田藩の岸さんの事を書いたがこの人に対して北越の新潟上陸戦で海防を担当した武士が新政府軍に抗戦せずに陣を払ったと聞いていた?

所が行ってみてもそう言う話を聞く事は出来なかった?

まあ、イキナリ出掛けて下調べもしなかったので仕方ないのだが・・・

新発田に陸軍東京鎮台分営が置かれた事情や新発田の連隊が常に最前線を転戦したと言う事にコレは色々な話が出てくるのではと期待した。

維新時に尊皇を自認していた新発田藩は新政府と言うよりも天皇の命に従うと言う方針であったとなっていた。
しかし、場所は奥羽列藩同盟の真ん中?新潟奉行所でさえ米沢藩の配下にと言う状態で新政府に通じるのは周を敵にとなる?
同盟側もその事を心配しさかんに参戦を強要したらしい!
しかし元々が尊皇の藩だったので結局は上陸を許し、官軍が来ると即、恭順し指揮下に入る。
この事が戦わなく上陸させたって事になったんだろうか?

新潟との間の境界問題も年来の話で?
攻撃が開始されると新発田側の領民が喜んだとか?
実際はその後に同盟側との戦いの最前線に駆り出される訳?
奥羽列藩同盟からは裏切り者扱いで新政府軍からも信用されない?
辺境の尊皇藩が置かれた立場の難しさを感じるなあ!

そう言う事が早くから分営が置かれた理由かな?
明治4年既に東京鎮台歩兵第八番大隊が置かれている。

一連の士族反乱が明治7年からで西南戦争が明治10年!
 そう言えば中国地方の各地では西南の役の参戦慰霊碑をよく見るが?
 東日本では余り見ないような気がする?

 旧軍では下士官の兵隊虐めが常習化していたとの事を聞くが?
 歩兵16連隊では皆無でそれが部隊の強さの元となっていたと説明された。

旧軍の事に関しては何処へ行っても同じような事を聞くが・・
ココの説明は説得力が有ったなあ・・・

作州鶴田藩2010年12月01日 08時22分10秒

スローライフ列車で津山に出掛けた時に探したが見つける事が出来なかった?
大体の場所は解っていた・・ と言うか前回、横道に入れば解ったかなあ!
キハ58・28の最後の運行に出掛ける事になり再訪する事にした。
諦めて引き返した道、手前から細道に入り山手に曲がった所だった。
陣屋跡にしては規模も作りも簡素だ!
 途中には案内板のような物も無い。
探し当てた時に大きな銀杏の木と石組みに階段。
 あっ ココだと言う手応えは有った。
一目で明治に入って作った物と解る石組みがこの場所を解りにくくしている。
イメージ的には昔の小学校という雰囲気だなあ?
土地の人達がこの場所にあまり興味がないと思われる?
 だからかなあ何か感じる雰囲気でもない・・・・
一本の杭に刻んである”作州鶴田藩六万一千石””西御殿跡”
この杭を見に来た訳だからそれで良いのだが・・・・
扇原関門から始まった一連の訪問の最後をココにするには余りに何も無い!
津山市は津山城で十分に観光客を呼べると考えるだろうし・・・
石州口の戦いには津山藩も参戦していて戦わずに逃げちゃったワケで?
この距離に浜田藩が引っ越してきたら、チョットかっこわるかっただろうなあ!
そう言う事で、津山の人達も興味が無いのかなあ?
市内の資料館にも寄ってみたが鶴田藩に付いての説明は見つけられなかった。

鳥羽伏見の後に官軍に詫び許しを請うために家老が切腹したという・・・
    廃藩の後にこの藩の人達は何処へ行ったのかなあ?
    
この場所には残らなかったんだろうと・・・そう言う風景がまさに跡だなあ!
第二次長州征伐、長州側では四境戦争と呼ばれる戦いの跡を訪ねて来たが?
とりあえず石州口の戦いについての旅はコレでお終いとしよう!

西会津2010年11月19日 09時25分12秒

会津はとても豊かに見えたのだろうし実際にも良い場所なんだと思う。
秀吉に有無を言わさず移封された上杉さんも結局は納得したと理解できる?
それ以前に割拠した蘆名さんや伊達さんも後の蒲生さん達のことはあまりパンフレットには登場しない?

出掛けていくと上杉さんと松平(保科)さんの旧跡ばかり目に付く!

今回は西会津から入ったが戊辰戦争の旧跡と言うより保科さんが東照宮に事おきる時に駆けつけるって理由で整備された会津街道が幕軍の移動に利用された後を追ったわけだ。

日光側にはそこそこ大きな集落だった場所は残っている。
その辺りの住民が幕軍に協力したとして官軍側から虐待された話もある、
しかし峠に掛かると今でも集落は少ない。
実際はダムの底に沈んでいるので良くワカランのだが?
出掛けてみれば地理的な感覚と異なり日光の隣に会津が有るって良く解る。

峠を駈け下り開けたなあと思ったらイキナリ西会津となる。

NHKのドラマの影響かとも思えないのだが・・・・目に付くのは。
直江君の弟で秀吉にも気に入られていた大国君の事ばかり?

説明はソコから飛んで維新後の郡役所になる。

そう言う所に今の人達が明治維新と言う中途半端な革命を経て刷り込まれた歴史観というのを感じるなあ?
郡役所を置いた事で余計に徳川時代を排除したのかな?

新政府と言われた時代に行った事はもう少し正しく伝えるべきだなあ・・・

また週末に長州に出掛けます。
いつの間にか出掛けた先で知った事を追いかけて行く形を取っていますが?
この会津街道で板垣退助が出てきたのには参ったなあ?
そう言えば岐阜で外人がリンカーンみたいな銅像の写真を写していて?
誰かと思った板垣さんだった・・・と言う事はあれからの続きかな・・

これより返す2010年11月01日 08時18分06秒

只見川沿いに蒸気機関車が走る。
友人達が早くから企画していて温泉旅館を確保してあった?
僕の方は行けるかは解らないと答えていた。
案の定、日曜に仕事が入り不可になった・・と 思ったら?
泊まるのは金曜から? ならば土曜だけでも撮影に行こう!

昨夜?早朝?会津に向かった彼らを追って朝の仕事を済ませて追う。

夕方に温泉宿に着けばよいと会津街道を行く事にする。
 親父が元気だった頃に鬼怒川へ良く出掛けていた。
  その時の定宿の近くに公園が有り散歩中に思わぬ立て札を見つけた。
余裕もあるのでその場所へ寄っていこうと思う。

僕の記憶では
 ”幕府陸軍、肥後藩兵を破るも会津危うしの報に接しこれより返す”
     記憶ではそう書いてあったと思う?

天気は上々、昼飯はSAで・見本につられてもの凄くマズイ?カツ丼を食べた。
今市で高速を降りて地道を走る、あれえ失敗したなあ美味しそうな蕎麦屋が並ぶ?
ナビに騙されて大回りして鬼怒川公園に着く、以前にも増して寂れているなあ。

東武鉄道の高架をくぐり戦場跡へ向かう。
少し雰囲気が違う?橋の感じが違うのかなあ?
景色も記憶とは違っている? 駐車場が出来ていて公園や看板は見覚えがある?

あの時、僕の散歩にしては遠くまで歩いたのも不思議だったけれど?
おや?この路は何か有るってそう言う感じがしたって記憶だ!
案の定、歩いていくと橋が見えその辺りは暗く小高い場所に続く階段が見えた。
そこまで歩いた時、その看板に気づいたと言う記憶?

しかし・・主題の看板は見あたらない!
その他には覚えが有る案内板も見えたが・・肝心の物がない?
こう言う所でいい加減な記憶を書くとお叱りを受ける事があるが・・・

その看板には前記の分に続き、大鳥圭介指揮下、幕府陸軍として組織的な反攻戦を開始し肥後藩兵を撃破し、宇都宮城の奪還に向けて反撃を決したが出撃直前に会津城危しの報が届き、救援に向うべくココから軍を返したという説明があったと思う。

しかし・・ 建っている説明板には肥後藩の文字はなく佐賀藩と板垣退助の事だけが詳しく説明されている?
そう言えば・・ あの時も他の看板は官軍側の視点で説明されていた?
僕が気になった看板のみ会幕軍ではなく幕府陸軍と記されていた!
公園整備は進んでいたが・・・もっと暗かったような?

幕軍側の視点で説明がされていた看板?
たしかそのハズだ!だから記憶にに凝っていたのだから・・・

  しかし、記憶違いなのだろうか?

蒸気機関車撮影報告はこちらを・・・
 http://www.youtube.com/user/dd5412?gl=JP&hl=ja#p/a/u/0/-f4bLTvIyRQ

壮士の墓へ2010年09月24日 08時21分42秒

梅蔭寺から商店街へ向かう、交差点に出て斜向かいに次郎長生家が有る?
本当にコレが生家か? まっ 観光地の呼び物としては良くできている。
梅蔭寺とSetするには少し離れすぎだが清水市の観光客を呼び込もうと言う気持ちと頑張りが感じられる。

ココは無料!と言うか?入場料を取るほどの見せ物ではない!
江戸期風の町屋の作りで奥の坪庭だったろう辺りがおみやげ物スペース。
ココに椅子が有ったので再びユックリする。
問わず語りに腐った饂飩の話をして慰められる?

目的の壮士の墓は河口の反対側!橋が有れば目の前だと言われる。

そうすると次郎長は自宅の目の前に死体を埋めた事になるなあ?
ヤクザ映画の清水の次郎長は全国的にも有名で浪曲の一説を思い浮かべる人も多いと思うが清水に来て意外に咸臨丸事件が詳しく説明されている事に驚かされた?
ここの生家にもその顛末が詳細に説明されている。

壮士の墓の位置が向こう側の木立の辺りなら漂着した遺体の腐臭にたまりかねと言う事が良く解る。
その時の次郎長は大事になると言う事は考えずに遺体を埋めたんだろうなあ?
その最中とかに賊徒を埋葬すると罰せられるとか言われて言い返したんだろうなあ!

気持ちは良く解るなあ・・

歴史の大業って言われる瞬間って現地に行ってみるとよく見える。
ココは河口で流れも余り無い、家の前に死体がイッパイ流れて来ちゃあ
罰するとか関係なくなってしまうだろう。
まして・・ この間まで将軍家だった徳川家が移封されてきたばかり。
その死体は全て幕臣で主家のために戦ってきた家来なのに・・
その徳川家が賊徒と触れ回ったわけだからなあ。

死なば仏、仏を埋葬供養して罰せられるなら罰してミロって
            生家の展示はその辺の説明が多かった。

ココでも1時間ほど休ませて貰い饂飩屋の悪口も尽きたので移動する。生家の裏口から川沿いに橋まで戻り対岸に渡る。

裏から来たので自販機もなく、ディスカウントショップで冷たい物を飲む!
 既に一気に飲めるほど体調は復していた。
再び川に沿って歩く、見えていた木立が予想のとおりに壮士の墓と解る。
清見寺の遭難碑は榎本武揚の揮毫で確かに立派だった。
こちらは埋葬した次郎長の気概に感動して山岡が書いたと言われている。
普通の墓という趣が良いなあ。
ここで起こった事を語り伝えると言うに相応しい景色だった。
遠来の観光客は「なんだコレ」って言うだろうなあ。
ソコがココに行こうとやってくる人達が感じる景観なんだなあ
当時の国際法などを知っていただろう咸臨丸側は交戦中であっても故障修理中の船員が虐殺されるとは思っていなかっただろうなあ?
彼らが生きていれば函館戦争では無くて明治海軍で活躍したはずだし。
少なくとも一連の明治に至る渦中で咸臨丸事件くらい理不尽な事は無いなあ。
再び橋まで戻り末廣と有る清水港船宿記念館を訪問する。
当時の古材を利用したと説明に有るが梁などは偽物で余り良い材料は使っていない?
見える所の柱くらいは当時の材料のようだが・・・良い趣味じゃないなあ!
最近増えた復元建物?中途半端な材料を使って昔風に作ったつもり?
木材の割れなどが見えて残念だ! 悪戯に保存とか移築とか書くから始末に悪い!
ココにあったと説明があるが展示の写真は90度向きが違う!

咸臨丸の模型があり事件の事に触れているが壮士の墓へ案内する風は無い。
まっ それでよいと思う! 何処もかしこも観光客に見せる必要はない。

 そう言う場所があると知らせておけば行く人は行く。

物見遊山の人を誘致するとせっかくの雰囲気が変わってしまうからなあ?
              バスに乗って清水駅に向かう。
壮士の墓を守る狛犬? 
       墓なのに狛犬?
              理由が知りたいなあ
                   デザインが・・  良い!