画像の添付2005年07月01日 16時49分03秒

何時のまにか画像が添付できるようになっていたのでテストでUpしてみます。
この写真は山陰本線で交換の列車の窓から手を出して片手で撮ったものです。
たぶん乗っているのは京都夜行です。場所は記憶がありません。
突然に汽笛が聞こえて窓から顔をだすと交換列車の牽引機がC57でした。
慌ててカメラを取り出し露出を感で合わせ目測でピントリングをハジキ シャッターを押しました。
こう書くと長い話ですが・・・・
実際は一瞬でした。
現像してからしばらく考えて、「ああ あの時だ」という写真です。

郵政公社と宅配ロッカー2005年07月04日 15時33分31秒

管理しているマンションに宅配ロッカーが有ります。
今朝、不在表が入っていて?宅配ロッカーが有るのに何故?使わないのか聞いたら、不思議な解答がありました。
まず、郵政が宅配ロッカーを使う場合は利用者が郵便局に申請してくれって言うんです?。
で、再配達してきたオジサンにその事を聞いたら「会社宛だったんで?持ち帰りました」って??普通(他の輸送業者)は会社の場合、電話してきて休日の配達が可能か聞いてきます。(急ぎの場合もあるのだから!)
でも連絡もないし・・なぜ宅配ロッカーを使わなかったのか聞いたら?入れても良いなら次回から入れますって言うわけ?
申請とかはイラナイ自分が報告しておくって・・・・?
その後に郵便配達の人がポストに入らない郵便物を宅配ロッカーに入れていたので、質問してみました。
本来、宅配小荷物を預かるためのロッカーに郵政公社は許可申請しないと荷物は入れられないけれど郵便物は入れても良いの?
返答は・・なんだか解らない?その人も申請は聞いたことがないと言うし、郵便物を了解の上ロッカーに入れるのは問題ないハズだと?
では、どうして荷物はダメなんだろう?
ああこの話題の宅配ロッカーって電子式で受領印も自動で発行しロックや受け取りはカードで行うモノなんです。
機械が受領印を発行すると言うことは荷受け側(入居者)はロッカーの使用を了承しているわけですから?
・・・それよりも、建築後5年も経っているのに・・・郵便局の荷物を宅配ロッカーで受けるための申請なんて・・聞いたことがない?

紀伊半島2005年07月11日 07時29分39秒

しばらく更新が止まっていたのは先週、関西へ出掛けていました。
さて、忘れないウチに・・・・
用事が早めに終わったので思いついて、高野山の宿坊に泊まりました。
行く時も橋本で道路標識は右なのですがナビは左?・・ウーッム左かあ
ところがコレが・・・延々1時間くらいエライ山道・・・・1日観光しての翌朝スゴイ雨の中を出発。
龍神道路?を走っていくと防護壁が崩れていて道路を半分塞いでいます。
通過時にガツンって(後で点検に行こう)・・・電波が届く所まで走って110番しました。
さて、スカイラインが終わって425で十津川へ熊野本宮から311で・・・
高野山を8時に出て尾鷲に着いたのは2時頃?
殆ど車の幅くらいの道を延々と走り続けました。
1時間近く走ってもすれ違う車は2~3台?土曜日の午後?関東では林道でもあり得ません?
もっともあの道で対向車が有ったら何時間かかったろう?
東京~大阪に匹敵する時間で・・・・紀伊半島は・・広い
写真は途中の道路幅の広い場所?です。国道の離合カ所?・・軽自動車でも辛そうでしょ??

加悦SL広場(加悦鉄道)2005年07月12日 08時53分36秒

丹後半島の加悦と言う所に鉄道車輌を保存している博物館?が有ります。
加悦鉄道という名称で丹後山田から加悦とニッケル鉱山を結んでいました。
あまり勾配も無く距離も短いために小さな機関車でも十分だったのか古い車輌が残っていました。
去年の夏に出掛けたのですが?今回の京都の用事が思ったより早く終わったので大阪のH氏をさそって再訪しました。
実はここのDB201という機関車を作ろうと思っています。
前回は分解修理中で機関庫に入っていたために前面しか見えなかったのです。
模型化に当たって気になる所が出てきて見たかったのが本音かなあ!
朝、7時半くらいに津田を出て10時開園と同時に加悦に着きました。
職員の方が我々の姿を見て急いで開けてくれました。
DB201に関しては数十枚の写真を撮影し・・・H氏は例の如く1両づつ丹念に撮しています。
一通り撮影した後、4号機を俯瞰するために展示車輌の除雪車に入って見たら車内がとても綺麗なんです。
引き戸の窓がスッと開く?・・・その後に客車に入ったら隅々まで埃一つ無いんです。
おそらく現役時代よりも綺麗なんじゃないかなあ?
他の所の保存車輌ってペンキでベタベタとかですがココって掃除してあるんです。
窓ガラスも汚れていないしブラインドや椅子も・・・
結構他だと壁蝨とか居るのですが・・・窓の桟を指で擦っても(姑のように)埃がないんです。
特に加悦鉄道に在籍していた車輌は綺麗です。
保存作業に従事している方々の気持ち?を感じるような・・・加悦鉄道でした。
隣の売店に軽食コーナーがあってそこの客車改造キハ08車内で食べる事が出来ます。
このキハ08も現役時代よりも綺麗に使用されています。
もし、加悦の駅(基のママ)に保存されていて数キロの線路を残して運行していれば、
大変な観光資源になったかもしれません?
大井川や秩父に汽車に乗るためだけに観光客が集まる時代です。
でも・当時の事情を考えれば車輌を残しただけでもリッパと評価すべきでしょうね。
そうだ、殆どの内燃機車輌は自走可能なんです。驚きでしょ・・・

尾鷲傘2005年07月13日 18時35分16秒

三重県の尾鷲という町は降水量が日本一と言うことで有名です。
この町の名産?に傘が有ります。
維新の話に登場する十津川郷とともに一度行ってみたいと思っていまいましたが、今回の高野山のついでに寄って見ました。
十津川は確かに山の中、紀伊半島が想像以上に山深い事を教わりました。
車のナビゲーションがあまり賢く無かったせいかもしれませんが!!
高野山から6時間も掛かり十津川経由で尾鷲に着きました。
尾鷲はイメージとは違って全く普通の港町で遅れてきた区画整理って感じでした。
古い町で熊野古道が唯一市街地を通ると記されて有りましたが、本当に普通の町でした。
市街地の路地は細いんですがかなり直しちゃっているんです。
町とは川を隔ててお寺と神社が並んでいて大きな楠があって、古い銭湯や飲屋街も有るのですが?
観光では人は来ないなあと言う感じで、でも土地の人に聞いて入った食堂は美味しかったです。
町の人はとても親切で昼食に美味しい物が食べたいと聞くと「尾鷲は海の物しかない」と親身になって考えて教えてくれました。
その店で「名物は?」と聞いたのですが「刺身定食1500円」が良いとのこと?
追加でなにか頼もうか?と言うと「見てからにしなさい十分だから」と言われてしまいました。
「サザエかエビを付けるけれど?」と聞かれて反射的に「サザエ」と答えましたが?
出てきた刺身や付け合わせを見ると「エビ」ってもしかして「伊勢エビ」だったの?と言う位りっぱな盛り合わせでした。
確かに安くて旨い・・
その店で尾鷲傘の事を聞いたのですが「テレビで見ました」と言う程度で・・・・・
観光センタで貰った地図には1軒だけ傘屋が書いて有り取りあえずソコを訪ねてみました。
看板も無い店でウインドウに少し安物の傘が見えて、傘屋だと解る店でした。
中に入って問うて見ると「尾鷲傘と言っても普通の傘だよ・・」と言うんです。
イロイロ聞いても「タダの傘」「普通の傘」を連発するおじいさんで買って帰っても来年まで生きてるか解らないから?修理は出来ないとか?あまり売る気もないんです。
確かに手作りで生地も厚いし骨も12本あるし、丁度モノスゴイ雨が降っていたので記念に1本買って見ました。
なんだか不器用そうに柄を付けていたので大丈夫かなあ?と思ったのですが?
たぶん?これが尾鷲傘なんでしょう?
モノスゴク大きくて生地が厚く丈夫な傘というイメージでしたが?
確かに、普通だなあって。
尾鷲まで行って死にそうなおじいさん(本人言)の普通の手作り傘を買ったと言うことで?

アルミホイールの話2005年07月14日 09時11分37秒

今乗っている車を購入する時に純正のホイールにスタットレスタイヤを付けて貰いました。
納車が冬季だっし受け取って即、長距離を予定していましたから!
当然ですが暖かくなってくると夏タイヤが有りません?
古くからの友人にタイヤ屋がいて何時もタイヤはそこに頼むのですが?
今回はホイールも含めてお願いすることしました。
装着できるホイールに制限がありその中からwと言うメーカーを進められました。
ちょっとヤンチャ系のデザインが多いいなあと思ったら東大阪の会社でした。
比較的おとなしい5本スポーク?のモノを選び注文しました。
所がそのホイールが18インチしかなく・・・まあイイかという乗りで・・当然装着するタイヤも替わってきて・・価格は予算を遙かに超えました・・
まあ 輝ちゃん(中学からの友人)の所だからいいかあ・・・・・
さて購入後の高速走行で振れが感じられ・・ヤナセの純正?ではよくあることなのです。cの場合はバランスもアヤシイし・・
輝ちゃんがメーカーと話しタイヤを測定するとあるポイントで1mmほどデコボコが測定されました。
結果として2本をクレーム交換とし納得しました。ただ以前に付けていたGR55というタイヤよりは振れるかなあ?と言う感じは残っていました。
私はBSが好きなんですが?チョットぴれりの高性能タイヤみたいな感じかなあ?
2万Kmほど走った今年の春にスタットレスから戻すと、なんだか?別のタイヤみたいに静かになりました。(不思議な話ですが)
所が所用で日光へ行って帰りに木ねじを拾ってしまい、抜くと空気が漏れると言う事態に・・・
パンクなんて30年以上経験無かったのですが修理に行きました。
この時にアヤシイ部品を輝ちゃんが取り付けたのですが??
その後にえらく前輪に振れが出たのです。
とって返して調べてみると・・ホイールバランスも何処も問題が無いんです。
所がボルト穴を覗くとホイールの穴に1/4ほどしか締めた跡がないのです。
調べた結果が・・これが原因と思われます。
注意して締めると(回しながら手締め)センターが出るのですが、アヤシイ部品を付けた時はパット外してひょいと付けた?ワケでインパクトでダダっと締めちゃったので振れたみたいです。
調査の結果、メーカーも製造不良を認めて新しいのを作ってくれるって言っています。
まあ良心的なのかな、でも2ヶ月待ってってのは困るなあ!それにアッチコッチでBSのGR8000の悪口言ってしまったしなあ?

アヤシイ電話2005年07月15日 11時52分19秒

アヤシイ電話は年中かかってきますが?ここの所、増えているのは一時のマイラインではなくてイキなり回線の種別を指摘しISDNの回線の変更を話し出す電話です。
おそらくISDNからアナログに戻してADSLに変更しIP電話との併用をセールスしているのだろうけれど?
良く解らない?
何が?解らないかと言うと 何故? ココの電話がISDN回線か解るのか? と言うことです。
この情報はNTT以外では知り得ない情報なのです。
例えばインターネットをISDNで接続しているのならプロパイダー等から情報が漏れるかもしれませんが?
ココの場合、ISDNは電話でしか使用していません。
つまりそのアヤシイ電話を掛けてくる先?GCFと名乗ってくるのだけれど?
ソコがNTTの内部情報を基に掛けてくると思われるのです。
普通のユザーだったら電話関係の機材等(TAとか)の名称を羅列され、ましてデジタル回線であることまで知っている相手からの電話を信じてしまう可能性もあるのです。
このような電話を受けたら相手の社名/電話番号/名前をNTTへ連絡するようにしています。
NTTも回線種別を特定して掛けてくる電話アポが有ることを知っている方が・・・・
まあ・・早い話が、NTTの持つ我々の個人情報が間違いなく漏れているワケですから?何らかの対策をシナイとイケナイと思うんですが?
それにしても 「電話回線について担当者か解る方に替わって下さい!」って言われると頭に来ますねえ・・「誰に物言ってんだー」ってなるよね!!
まあNTTもこの件でクレーム入れても何もしていないミタイだし・・・
みなさんも注意して下さい。ソノ手の電話がかかったらNTTに相談する?方が良いでしょう!!
また、ソノ手の連中には連絡先を確認しNTTに通知するって言った方が良いでしょう!
リフォーム・融資・オレオレその他の電話アポで利益?っていうかお金が貰えちゃうのが変なんですけどねえ?
無くならないんですねえ・・・

大森銀山の話2005年07月16日 09時14分51秒

世界遺産登録申請とか?で石見銀山が大騒ぎです。
かつて僕たちが「大森」と呼んでいた頃の石見銀山は確かにスゴイ所でした。
赤い鋳物の郵便ポストも有ればアルミサッシに変えた家も幾つか有ったし生活している人達は現代の姿でしたが?街自体は江戸時代とそんなに変わっていないのでは?と思うような町でした。
女郎屋の跡とか刑場や大森県庁とか言われていた場所?間歩なんかは入り放題?
何より観光客がいませんでした。
町の人以外で大森を歩いているのは殆ど城福寺YHに泊まってこの大森の話を聞きやってきたホステラーだけでした。
ユースホステルに泊まりそこで大森の情報を得て旅程を変更して訪れる旅人?
つまり旅行者としては比較的質の良い人達が多かったと言うことです。
間歩に入る場合も事前に情報を得ていたので事故も無かったのだと思います。
私が好きだった間歩などは入り口からの光が完全に届かなくなった先で不意に左壁に分かれ道のような空洞があるのですが、ソコは縦坑の口でその縦坑に石を落としても底に当たる音がしない位の深で垂直に落ちていたのです。
銀山への道や小川には江戸時代の瀬戸物の欠片やノロがそこらじゅうで拾えました。
トンネルを抜けて大森に入ると不思議な空間に迷い込んだようなそんな所でした。
当時はまだ大手の観光ガイドブックにも殆ど記述が無く町の人達も観光地だとは思っていなかったみたいです。

大森から石見銀山へ2005年07月17日 10時33分35秒

いつ頃だったか?良く覚えていないのですが「大森」と言っていた町を石見銀山と呼び始めた頃、劇的に大森が変わっていく瞬間が有りました。
今、思えば観光地として売り出す・・・と言う事を思いついた?そんな感じで町の雰囲気が変わっていきました。
当時はまだ三瓶があの辺りの大観光地で三瓶温泉の旅館街なども賑やかでしたから?
大田市が大森の価値?に気が付かずソコまで?力を入れなかったので辛うじてラシサは残っていました。
けれどその時点で私達にとっての大森は変わってしました。
羅漢寺の木村幽玄師が亡くなり大森を訪ねることもなくなりました。
銀山食堂も無くなり、大きな駐車場が出来て龍源寺間歩を掘り返し・・・
金儲けのためだけの売店が進出し・・・
石見銀山の何が世界遺産にふさわしいのか解っていない人達が寄って集ってその価値をメチャメチャしています。
世界遺産に向けて保存することが、新しい観光地を作ることとは違うと言うことをキチント住民も行政も文化庁も理解しないとイケナイと思います。
観光客を集めれば名前が広まり商売にしようと集まってくる人達がいれば経済効果ってのが出てくる?。
有名のなれば世界遺産に登録できる?でも
野放しにしていると彼らの営業努力が世界遺産登録の却下につながりそうなのです。
20年・・いや せめて10年前の状態なら間違いなく登録は可能だったでしょう?
歴史的な意味合いを見れば間違いなく西洋と東洋が一つの世界になったきっかけに大きな影響を作った銀山だからなあ、世界遺産なんですよ・・・・
海外では価値を理解している・・・でも国内じゃあねえ?
そこの所が大田市じゃムリだろうなあ?

石見銀山と外国人2005年07月19日 07時49分33秒

城福寺が仁万の町でユースホステルを始めて40年になろうとしています。
島根県のこの地方はまさに何もない山陰の小さな町でここになぜ?ユースホステルが有るのかって疑問が沸くくらいの場所なんです?
当時の事を調べると石見銀山も田舎の名所に過ぎないんです。
琴ヶ浜だって鳴き砂の浜となっているけれど実際に音がするんだと言う説明は無いんです。
この城福寺で近郊の見所として大森や琴ヶ浜をアナウスしていたんですが観光客なんて全くいなかったんです。
私自身は多くのホステラーを大森に連れて行き銀山を案内けれど穴場ってこんな場所のことかなあ?って思っていました。
仁万の駅から川沿いの通りが昭和初期って感じの道で大森は江戸時代の町に見えましたからねえ。
たまに外国人が大森を訪ねてきてユースホステルに泊まると言うのが不思議だったんですが?
考えてみれば海外で旅行者の宿としてのYHは当然の宿だし、我々よりも正確に銀山の価値を知っていたんですねえ?
わざわざ海外から大森を見に来たんだって思っていたんです。?
彼らのコースって松江・出雲大社・石見銀山・広島って言うのが標準なんです。
最初は仁万に泊まるから大森に行くのかと思っていたんですが?
このコースは「石見銀山」を選択した結果、設定された道順みたいなんです。
受け入れる側は出雲から広島に向かう途中で寄ったと思っていたんですが?考えてみれば?出雲大社なら松江・出雲に泊まる方が効率が良いし広島宮島観光なら仁万に寄るよりも直接広島の方が効率も良いんです。
大森に行くのに萩や津和野を知らないのはそう言う事みたいなんです。
全てでは有りませんが「石見銀山」が主でその結果が大社や広島ってケースが有るんです。こう言う事を大田市とか世界遺産に集っている人達って知らないだろうなあ?
30年も前のヨーロッパから来る旅行者が出雲大社や厳島より大森(石見銀山)に興味があったなんて?